日語 茶道 論文
我以前用過的論文,送給你分享吧!
日本の茶道と中國の茶文化
~その同質(zhì)性と異質(zhì)性について~
呉 靜怡
(久保研究室)
キーワード:千利休?陸羽茶経?斗茶?日本文化
序章
私は日本の博物館、民族館を見學(xué)するたび、よく中國文化が伝承されているのを見て驚く。現(xiàn)在中國では、中國の伝統(tǒng)文化を守ろうと努力している人が増加しているが、日本文化の中に息づいている中國文化にこそその原形があるのではないかと思う。それを見つけて、中國獨特の文化を取り戻したいと思う。その媒體として「茶」の文化に注目したのが本論である。
第一章 日本の「道」文化
日本には、茶道、華道、香道、歌道、弓道、剣道など多くの「道」がある。その中で最もよく知られたものは茶道であろう。茶葉の発祥地は中國の云南省の奧地で、飲茶の発祥地は中國の四川省であるといわれている。その茶を日本の遣唐使が仏教とともに日本に持ち帰り、飲茶と禪とが融合して日本の茶道になった?,F(xiàn)在では茶道の流派は三千に及び、茶に関した仕事に従事する人は五百萬人を下らない。だが中國では「道」にはならず、ただの茶文化、もしくは茶蕓にとどまった。
第二章 中國の茶文化の歴史
中國には「漢方は二千五百年、茶は四千年」という言葉があるように、茶は漢方薬よりも歴史が古い。古くは伝說的な薬の神である神農(nóng)が解毒のために茶を使ったことが知られている。唐代になると、茶は固形の「餅茶」が中心で、それは支配階級のものだったが次第に庶民に拡がり、庶民は茶に湯を注いで「淹茶」(だし茶)という方法で飲み、それにつれて茶を売り、茶を飲ませる店が多く出現(xiàn)した。宋代では、茶は固形の餅茶から「団茶」が主流となり、やがて「研膏茶」へと変化し、「龍団鳳餅茶」と呼ばれる龍や鳳凰の金色の紋を押した特別の研膏茶が朝廷に獻(xiàn)上された。元代では、蒙古の影響でバターや香辛料を入れた茶が普及し始めた。花を混ぜ合わせた混ぜ茶、雜茶、調(diào)合茶などと呼ばれるものが日常生活に浸透し、中國の「花茶」のルーツとなった。
第三章 日本の茶道の歴史
日本式茶道のルーツは、中國北宋の「斗茶」であると考えられる?!付凡琛工衔娜摔伍gの游戯的な娯楽で、二階建ての建物の茶室である「斗亭」で行われた?!付凡琛工扦稀⒖亭弦蝗摔氦倪`う四種の抹茶を十回飲んで、茶の產(chǎn)地と水の水質(zhì)、出所を答える習(xí)慣があった。
武野紹鴎は村田珠光が說く「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禪思想を采り込み、高価な名物茶碗を有り難るのではなく、日常生活で使っている雑器を茶會に用いて茶の湯の簡素化に努め、精神的充足を追究し、“侘び”を具體的に表現(xiàn)した。利休はその教えをさらに進(jìn)め、“侘び”の対象を茶道具のみならず、茶室の構(gòu)造やお點前の作法など、茶會全體の様式にまで拡大した。
第四章 中國の茶文化と日本の茶道の比較
【同質(zhì)性】唐?陸羽『茶經(jīng)』に「もし熱渇?凝悶?頭痛?目渋?手足の痛み?百節(jié)がのびない時、茶を四、五口飲めば、醍醐(最高の乳制品)、甘露と抗衡(はりあ)うなり」とある。體を治し心を愈す飲みものが茶である。
【異質(zhì)性】中國の茶文化は香りと味が大切で、いわゆる工夫茶はいかに手間をかけてお茶を美味しく飲むかが重要となる。一方日本の茶道は「もてなし」と「しつらい(飾り付け)」の美學(xué)だといえる。「亭主」は、まず露地という庭園をととのえ、茶室の中に、掛物や水指?茶碗?釜などを用意して、演出の準(zhǔn)備をする。日本の風(fēng)土が育んできた結(jié)晶がそこにある。そして「亭主」と客の間に通う人間的なぬくもりがある。
終章
日本の茶はオリジナリティーに富んでいる。他國文化を基礎(chǔ)にしているが、そこから學(xué)びつつ、自からの特徴を活かして創(chuàng)造している。中國人である私は、その精神を勉強(qiáng)しなければならない。近代の文豪魯迅は日本の文化を忘れることはなかった。これは私にも同じことが言える。私は現(xiàn)代の魯迅でありたいと思う。
后書き
妙皇寺の茶會に參加し、大盛席、表席、裏席を體験した。大盛席での大きな茶碗になによりも驚きまた日本の茶道を満吃した。
參考文獻(xiàn)
布目潮渢『中國茶文化と日本』汲古書院、平成十年四月
張 忠良、毛 先結(jié)『中國世界茶文化?経典文化系列』時事、 2006年1月
施 由明「中國茶文化と日本茶道の比較と略論」『農(nóng)業(yè)考古』2002年
(工夫茶)
(千利休)
(裏千家歴代)( 茶道とは) その他